みんな年をとっ中学同級生
19日(金)曇り。今月に入って一度もテニスができていない。体がなまって仕方がない。原発政策がいよいよもって事故前に戻ろうとしている。原子力村の完全復活である。12年にできた再生エンルギーを電力会社に買い取りを義務づけた制度の見直し問題である。
折角、その気運が高まってきたのに、急ブレーキをかけるものである。それも、義務付けた法律を改正するのではなく、経産省令の改正でやろうというのだ。全く法治国家とは思えない。集団的自衛権の閣議決定といい、今回の例もまるで法に優先させた戦前の勅令主義だ。
この項は日本における政治教育の歪みについて考えようとしている。今朝の新聞でも新潟県自民党の田上支部長の町議が衆院選で菊田真紀子(民主党)氏の演説会で「小学生に政治的主張をさせた」と問題視している。未成年者が政治に関心を持つことがいけないのか。
リムさん家族との思い出
事実関係は定かでないが、日本では授業中であっても政治的問題を取り上げるのはかなり勇気がいる。私の記憶に誤りがなければ、授業中に各党の公約を比較しただけで問題になった例、埼玉県の高校の文化祭に政治的テーマを取り上げて問題視された例もあった。
私は30代頃から、複数の学校の文化祭で「戦争展」を開催してきた。内容はさまざまで15年戦争と地域をテーマに紙芝居をつくり、それをスライド化して音響効果やナレーションを付けて体育館で上映したのが最初だった。この時の校長は積極的に応援してくれたし、地域の方からも絶賛された。
ある年にはかなり時間をかけて地域に遺品や戦前の教科書、防空頭巾等の提供を呼びかけ、その一点一点に解説をつけて展示した。一つの教室が十分に埋まる内容になり、地域の関心も高かった。この時も地域に配る文書に校長名と社会科主任名を書かせてもらった。
リムさん家族との思いで
70年代の終わりに新潟市内に転勤となり、再び開催。その当時の校長はシベリア抑留経験のある人で、深い理解を示しながらも教科書攻撃が激しくなりつつあった時代から「大丈夫ですかね」と心配された。私は変な親がいれば、まともな親だっていますから・・と、開催できた。
84年に帰国して、私はますます戦争教育に燃えた。私が本を出版し、数社に新聞で紹介されたり、インタビュー記事にも載ったもので、それも力になって強い妨害を受けることはなかったが、校長が非常な不安を口にされた。私は何かあれば私が責任を負いますと。
今果たして可能だろうか。無理ではないか。70年代に私の先輩が「水俣病」を授業でやった際、放課後の講評会で指導主事が「裁判で結論が出ていない問題を授業でやるのは政治的」と発言し、その先輩も私も激しく抗議。主事は発言を撤回。これも今ならどうだろうかと思ってしまう。
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