南京での日本降伏調印式
9月2日(水)曇。1945年9月2日、70年前の今日が日本の本当の敗戦記念日である。この日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズリー号(当時世界最大の軍艦)の上で、午前9時から降伏文書の調印式が行われた。調印したのは外相重光葵と軍代表梅津美治郎の2人。
勿論、「天皇および大日本帝国政府の命により、その名において」である。文書の主な内容は①日本はポツダム宣言を受諾する②日本軍は連合国に無条件降伏する③連合国軍に対する敵対行為は一切しない④天皇・日本国政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の制限のもとにおかれる。
連合国側の署名者はマッカーサーと米、英、ソ、中、豪、加、仏、蘭、NZの代表である。当初、占領軍による直接統治が予定されていたが、重光らの必死の交渉により、間接統治となり、軍票の発行、裁判所の閉鎖等は中止となった。事実上のアメリカ単独占領だ。
軍国主義者には屈辱の調印式
これに先立つポツダム宣言を受諾した8月14日の夜、政府は本土決戦に備えて蓄えていた当時の価格で1000億円に上る巨大な食糧・生活物資・原材料など、すべて放出を決定。保管されていたのは官庁、軍、工場など。これに群がったのが大企業、高級官僚、軍人だ。
8月24日東久邇内閣は慌てて中止の閣議決定をするが、すでに遅し、大半は彼らに流れてしまった。敗戦とともに軍需生産はストップ。失業者は500万人、引揚者を含めれば1300万人とも言われた。政府が心配したのは彼らではなく企業の倒産だった。
生産中止で納品もないのに、臨時軍事費から次々と支出し、11月25日GHQの中止命令が出るまでの間に266億円に達したという。日銀券をジャブジャブ発行して、大企業を助け、戦後のインフレが作り出された。今も昔も国民のための政策ではなく大企業救済の為に動く政府の姿。
武装解除
ここで忘れてはならないのが第二の降伏調印式である。中国は明日3日抗日戦勝利70周年を祝う。アベに連なるナショナリストにとっては屈辱の日だろう。2日の降伏調印式を翌日中国で祝ったのである。第二の降伏調印式は9月9日、南京中央陸軍軍官学校の大講堂で行われた。
日本軍の総司令官岡村寧次が降伏調印式に臨んだ。Wikipediaに、当時警衛参謀だった王楚英氏の証言がある。講堂までの1200mにわたり50mおきに旗竿が立てられ、中、米、英、仏、ソの国旗がはためいていた。降伏調印式には1000名以上の人たちが見守ったと。岡村は戦後、責任も取らず、66年まで生き延びた。
「岡村寧次の手はずっと震え続け、判がずれたほどだった」と。「昆明の街頭は泣いては抱き合い、太鼓や銅鑼を鳴らす騒ぎとなっていた。市民は眠っていたが、私たちにおこされ、太鼓や銅鑼を鳴らし、爆竹で祝った」と。戦争の結果とはこういうものだろう。