海外生活体験者のレポート「フレンズ 帰国生 母の会」投稿より 1


我が家の海外生活

夫の最初の赴任地はニューヨークで、子供達は長女5才、長男0才でした。いずれは海外勤務になるだろうと思っていましたが、いざ転勤が決まると現地の治安など漠然とした不安で一杯でした。家族は夫の半年後に行くことになっていましたので、住まい・家具・ホームドクター・車・学校(幼稚園)等は全て夫が決めてくれました。私は子供達の予防接種歴の英文手配と引越しをしただけでしたが、子供達が小さかったので、なんだか大変な大仕事だったような気がします。

住まいは、ロングアイランドのナッソー郡ミネオラの一戸建て、車庫は大きいけれど地下室の壁が少し剥がれていて、2階の納戸を開かずの間にしたような古い家でした。夫は車が2台入る車庫があり、子供たちが速やかに英語を習得するために、学校に日本人が少なく、治安も良いところということで決めたようです。最初は日本人が近所にいないのが不安で、夫にどうして日本人が多い学区に決めなかったのかと文句も言いました。でも、結果的には、近所の方達が陽気で親切で子供もたくさんいたので楽しく生活できました。夏には各々の家が友人達を招いて、道を通行止めにしたブロック・パーティーで夜遅くまで盛り上がり、近所のアメリカ人3家族とは泊まりがけの旅行もしました。

当時の娘は元気で物怖じしない子だったので、すぐに近所のアメリカ人の子供達と遊びたがったり、隣の老夫婦のお宅へも一人で遊びに行ってしまったりと、英語が上手に話せない私は振り回されてオロオロするばかりでした。子供が外で遊ぶ時は親が必ず見ていなくてはならないので、私も近所のママ達と一緒にいて話をすることになるのです。ママ達は受け入れ気遣ってもくれましたが、毎日のことだったので、結構なプレッシャーとストレスがありました。今思えば、そのお蔭で早くご近所の方々と親しくなれましたし、娘も学校のESLを2年足らずで終了し、現地校にすぐに溶け込めたのでしょう。
息子は、3才からナーサリースクールに通わせました。0才からアメリカにいるといっても、ほとんど私といるわけですから、英語は話せないし、娘と違っておとなしいので、初めはちょっと嫌がりました。先生が話すことを理解しているので言葉の問題はないと言われましたが、本人は英語が苦手であると言っていました。
毎週土曜日は日本人補習校に通っていましたので、日本人のお友達も沢山できました。遠い親戚より近くの他人ではないですが、頼りにできる日本人がいることは心強かったです。家族ぐるみのお付き合いをしていた5家族とは、今でも連絡を取り合っていて、年に何度か集まっています。

最初は全て夫頼りでしたが、だんだん慣れてきてルールやシステムが解れば英語がうまく話せなくてもやっていけることを学びました。例えば、おとなしい息子ではありますが、血尿が出た時、後頭部を打ち大量に出血した時、車の窓ガラスに顔を打ちつけ眉毛を真二つに切った時と3度も救急病院に駆け込みましたが、2度目からは、小さな通訳娘と一緒に3人で行きました。3度目は男でも顔は大事なので人相が悪くなっては困ると、救急医ではなく形成外科の専門医に処置してもらいました。慌てないで落ち着いて対処すれば、どうにかなるものだと思いました。とは言え、夫が頼りになると実感した海外生活でした。

6年後の春に帰国し、子供達は公立小学校の6年生と1年生に入りました。転入・転出の多い学校でしたのでよかったのですが、娘は6年生という微妙な学年でしたし、ちょっと太っていて、性格も子供っぽかったので馴染むのにかなり苦労していました。息子は新入生だったのでスムーズに日本の生活に入って行きました。

4年半後、夫にフランクフルトへの海外赴任の内示がありました。
娘は高校1年の2学期の途中で、学校と部活がとても楽しいから転校したくない、今から現地のインターナショナルスクールに入って苦労したくないから日本に残ると言いました。2世帯住宅で祖父母と同居していたので残れると思ったのでしょう。夫は連れて行きたいようでしたが、本人のやる気がない限り勉強についていけないし、2年後の大学受験時には戻らなければならないので、話し合った末、両親にも了解してもらい、娘を残すことにしました。しかし、高1で残していくのは不安でしたので、私と息子は娘の高2終了まで、息子が小学校卒業まで日本にいることにし、夫に1年間単身赴任してもらうことにしました。娘は大学の付属高校に通っていたので、大学受験の心配はありませんでした。高3から大学2年までの3年間ならば、うまくやってくれるのではと思ったのですが、そんなに甘いものではありませんでした。祖父母との50年のジェネレーションギャップはかなりのもので、度々もめていましたので、電話でなだめたり謝ったり、長期休暇の時には娘を呼び寄せたり私が日本に帰り両親のご機嫌を取ったりとちょっと大変でした。ドイツにもどると穏やかな日々でホッとしたものです。

ドイツに赴任するにあたっては、ほとんど何も心配していませんでした。ドイツ語は解らないのですが、どうにかなると思っていました。息子は日本人学校に行くことにしていましたし、車の運転をするつもりがなかったので、万一の事故処理の心配をする必要もありませんでした。また英語が結構通じるので、ドイツ語の挨拶、数字、必要な食材や物の名前、電車・バスの乗り方、ゴミの出し方などルールを知っていれば生活できました。
フランクフルトでの住まいは息子の通学と私の車なしの生活(夫は車通勤でしたが、2台目を購入するつもりがなかった)に便利な所でした。街の中心部まで10分の地下鉄3路線が通る駅から3分程の新築の綺麗なアパートでした。日本人も多く住んでいたので、色々な世代のお友達ができて楽しかったです。
息子は、本人の希望で日本人中学校に入学しました。息子の学年は20人ぐらいで、出入りはありましたが、卒業時でも15人ぐらいいましたので、皆仲良く楽しい穏やかな学校生活を送りました。高校受験のため、学校近くの日本の塾にも通っていましたが、のんびりとしていました。中3になって慌てて英検2級を取ったり、日本にいる娘に願書の取り寄せをしてもらったりとバタバタしましたが、結局はなるようになったという感じです。
フランクフルトに行って9カ月後に新しい家族が増えました。ウェストハイランドホワイトテリヤ犬のSCHNEEです。まだ日本にいる時、もしドイツに行って息子が情緒不安定なってしまったら犬を飼ったらいいのではないかと思っていたので、つい息子に「ちゃんと世話をするのならドイツで犬が飼えるかも!?」と言ってしまっていたのです。ずーと忘れた振りをしていたのですが、犬好きの夫と息子に押し切られて飼うことになってしまいました。息子と夫が面倒をみるとはいっても、ウィークデイの午後の散歩は暇な私のお仕事になってしまいました。お世話はちょっと面倒でしたが、お陰で周りの公園や街の散歩が出来てよかったです。ドイツやヨーロッパの国々では、食料品店以外はたいていどこの店にも乗り物にも犬を同行してよかったので、よく一緒に色々な所に出掛けました。そして、大切な家族の一員となりました。
3年間滞在した後、私と息子とSCHNEEは一足お先に帰国し、その8か月後に夫も日本勤務となりました。

高校受験

息子8歳、娘3歳の時にインドネシア・ジャカルタに赴任し、6年間の異国での生活を経て帰国いたしました。
ジャカルタでは日本人学校の規模も大きく、息子は抵抗なく日本にいるときと同じような学校生活をスタートし、娘は現地の英語系幼稚園に入園し、それぞれの新しい土地での学校生活が始まりました。

日本人学校では、現地校の生徒との交流やインドネシア文化を学ぶチャンスにも恵まれて、大変充実した時間を経験しました。ジャカルタでは自由に行動がとれない制約された環境でしたが、子どもたちはのびのびと学校生活を過ごしました。しかし、赴任して3年が経ち私に気持ちの余裕が出てくると、子どもたちが帰国した時に日本との習慣のギャップに戸惑うのではないかと考えるようになりました。その頃、中学受験をするために母子で帰国をする家族も増えてきていましたが、わが家は異国での生活を満喫することを大切に考え、いずれ迎える高校受験の準備を進めることを家族でよく話し合いました。

息子は好きなスポーツに励み、部活に加えてクラブやインターナショナルチームにも所属して海外遠征も経験することができました。忙しい生活の中でしたが塾にも通いはじめて高校受験に向けての準備を始めました。現地の塾は学校の行事をまず最優先に考えてくださり、息子は頑張っているスポーツの時間を大切にするリズムを崩さず勉強を続けることができました。しかし、私は帰国のタイミングを考えるとだんだん不安をもつようになりました。環境の違う中で育った子どもたちが、帰国後人数の多い公立校に馴染めるのか心配になり、インターネットのHP等で編入情報を調べました。息子が中学2年生の夏に、幼稚園から中学3年生までの一貫校が編入生の募集をしているのを知り、一時帰国をして試験を受け、無事合格をいただきました。ほぼ同じ時期に主人の辞令もでたため、家族そろっての帰国ができました。息子は日本人学校の友だちと一緒に卒業できない寂しい気持ちを切り替えて帰国後、日本での中学生活と高校の受験勉強が本格的に始まりました。
なぜこんなに夜遅くまで塾に通い受験勉強に時間を費やさないと高校に入れないのか…等、私の中では様々な思いもあり(は疑問ばかりが増え)ましたが、前を向いている息子をただ見守ることしかできませんでした。高校選びは、大学受験は希望しないという息子の意思を尊重して、付属校に絞りました。短い日本の中学校生活は、先生方の温かくきめ細かいご指導と友人たちにも恵まれて始まりました。まわりのお友だちと同じように高校受験に向けての姿勢が整ったお陰で、第一志望の合格をいただくことができました。息子は、スポーツの部活にも入部し、高校生らしい学生生活を始めました。親の赴任で辛い思いもあったと思っていますが、私は息子の元気な後ろ姿をこれからも見守っていきたいと思います。

親の立場からは、日本の受験を経験して、いろいろと疑問に思うことはありますが、息子の高校受験は無事に幕をおろしました。帰国して日本の生活に馴染むのに、いろいろな壁に遭遇したことと思いますが、何事にも挫けず諦めずに前を向いて頑張る力が身についたと思います。習慣や文化の違う環境で育ったことは、自然に他人を思いやる心を育て、バランスのとれた人間性を肌で身につけることができ大変貴重な経験となりました。高校受験やジャカルタでの生活が息子にとって今後の人生の中でプラスに役立ってくれることを母として願っています。

小学校のボランテイア

ボランテイアときいてどのように感じますか?以前の私は何か特別で自分には遠い事のように感じていました。ところが夫の駐在の為に渡米してから考えが変化してきました。

私たち家族は長女が小学2年生、次女が4歳のときにアメリカ・ジョージア州アトランタに渡米しました。
この国では、ボランテイアがごく自然に人々の生活に溶け込んでいます。気がつかないうちにどこかで誰かに助けられ、その気になれば自分も気軽にボランテイア活動に参加できます。それはエレメンタリースクールでも同様です。新学期が始まるとすぐに開かれるオリエンテーションではボランテイアシートというものがまわってきます。そこに自分にできそうなものをみつけてサインをします。私もアメリカ生活2年目に突入し、生活にもそろそろなれてきた頃に、次女のキンダーガーデンのクラスで数種類のボランテイアを経験しました。

キンダーガーデンでは週に1回“センタータイム”と呼ばれる時間があります。これはクラスに行って、子供たちに混じって、質問に答えたり補助をしたりしながら一緒にクラフト作りをするお仕事です。その日はカフェテリアで娘と一緒にランチを食べて帰ります。これによって娘のクラスメートや先生とも知り合いになれるうえ、学校での娘の様子を肌で感じる事ができます。この他にもリソースセンターというところで先生が依頼したコビーや切り抜きをする仕事もしました。
中でも大変だったのはフィールドトリップのシャペロンでした。これは遠足の付き添いの仕事です。私が参加したのは“インデイアン村”に行く遠足で、学校から生徒、先生、他のシャペロンの方々と一緒にバスに乗り込みます。現地についたら自分の子も含めた4人の生徒を託され、地図をもとに帰りのバスの時間まで彼らを連れて園をまわります。こんな事を想像していなかった私は正直あせりました。何しろまだ英語力も十分ではなく、初めて来た場所で子供たちを連れて回らなければならないのです。それでも何とか回って帰りのバスに乗り込み、“ヤレヤレ”と思った矢先のことです。私のグループだった男の子が泣いているのです。よく聞いてみるとどうやらその子が楽しみにしていた場所があったにも関わらず私がそこを抜かしてしまったのが原因でした。この男の子には本当に申し訳ないことをしてしまいました。このような結果になってしまいましたが、私にとっては貴重な思い出です。
学校でのボランテイアは先生と親とのコミュニケーションを図る事ができます。親も自分たちが参加することで学校の教育をまったくの先生任せではなくもっと能動的になれるのです。
異国に住む場合、私たちは現地の人々にとっては外国人です。私も最初はドキドキでしたが、ボランテイアに参加することでその国への理解を深め、少しでも仲間の一人としての意識をもつことができるいいチャンスであり、とても楽しい思い出になっています。

小さな自信

2001年7月から2007年7月までの6年間、私は主人の転勤でアメリカのサンフランシスコ近郊で生活をしました。
「アメリカに行ってメジャーリーグの試合をたくさん見ようね!」と野球が大好きな小学3年生だった長男はとても喜び、「お兄ちゃんと一緒なら私も大丈夫!」と小学2年生の長女も期待を膨らませて渡米しました。しかしサンフランシスコ国際空港に着き、どこからも日本語が聞こえず、全く知らない風景が見えたときから子供たちはとても不安げな表情に変わりました。現地校の新学期が始まるまでの一ヶ月半ほどは、近所の散歩をしたり、公園に行っても誰も知った人がいないので、すぐに帰ってきていました。前任者がいなかったので、知人や医者を紹介してもらうことも出来ず、何でも主人と相談して一から探す生活でした。ですから毎日が新しいことばかりで、どんなことも聞き逃さないように一生懸命だったので、一日が終わるとグッタリ疲れてしまうことが多かったです。生活が軌道に乗り始めた矢先に「同時多発テロ」が起き、さらに気を引き締めて暮らしていこうと思いました。

現地校に通い始めたとき子供たちは、何もわからずただ教室で黙って座っていたようです。私が迎えに行ったときも、先生は「今日も静かにして良い子でしたよ」というばかり。宿題も「まだ難しいだろうから、無理してやらなくていいですよ」と言われ、このままでは全く前に進めないと気持ちばかり焦っていました。どうしたものかと思っていたある日、体育の時間に縄跳びをすることになりました。息子が二重跳びや綾跳びなどを取り混ぜて飛んだところ、クラスのみんながとても驚き、その日から息子は一躍ヒーローになりました。少し自分に自信がついてからは、私が作った単語帳を片手にお友達に話しかけるようになり、徐々にお友達が増えていきました。娘も当時流行していたピカチュウを折り紙で折ったところ、それがきっかけでお友達が増えていきました。それからは宿題も出してもらうようになりました。宿題を手伝ったり、クラスのボランティアに参加したり、遠足に引率で参加してみると子供の様子がわかるだけでなくアメリカの文化がわかり、私自身も大変良い勉強になりました。

英語が少し出来るようになると大変になってくるのは日本語力の維持です。我が家では「現地校では英語、帰りの車の中から徐々に日本語、家に入ったら日本語」と決めました。低学年で渡米したので、毎日短時間ですが漢字をきちんと書き、日本の教科書を音読し、キレイな日本語を話すように心がけました。

現地校の勉強は量が多いので大変でしたが、時々息抜きをさせてあげたいと思い、まず週1回のスイミングクラブ通いを始めました。そして息子は地元のリトルリーグに入り、娘はテニスや体操教室にも通い始めました。スポーツはとっさに言葉が出ないと成り立たない場面が多いので、我が子はスポーツを始めてからの方が言葉がスムーズに出てくるようになりました。念願だったMLBは、年に数回イチロー選手や松井選手が西海岸に来たときはもちろん、普段も地元サンフランシスコジャイアンツの試合は何回も見に行きました。

現地校もミドルスクールになると日本の大学のように選択科目が多くなり、生徒によって時間割が違うので、一人ひとりがしっかりしないと学校生活が送れません。音楽の授業ではジャズバンドやコンサートバンドの授業を取り、ドラマ(演劇)の授業やエイドといって下級生の勉強を見てあげて先生のお手伝いをする授業を取ったりしていました。宿題も多く、ジオラマを作ったりパワーポイントやプロジェクトボードを使った発表も多かったので、家で発表の練習したときに家族で批評しあったのは、良い思い出です。

帰国後すぐに息子が、翌年には娘が高校受験になりましたが、面接やエッセイ、小論文を書くときも、アメリカでのさまざまな経験があるので話題には事欠かず、「何を聞かれても大丈夫だよ」と口を揃えて言っていました。

渡米当初はまったく英語が話せなかったので、簡単な算数の問題も解けずに悔しい思いをしていましたが、そのことがかえって「勉強しよう!」という気持ちに火をつけ、大好きなスポーツをすることで楽しみが増えて更にお友達の輪が広がりました。何かのきっかけで、英語を学ぶ楽しさと、もっと出来るようになりたいという欲が出てくるのだと思いました。いつでも物事を前向きにとらえ、家族で支え合うことが、海外生活を充実した楽しいものにしてくれるのだと思いました。

海外での子育て

わが家の海外生活は日本から遠く離れた南米で始まりました。
1992年~1996年チリ、1996年~1999年ボリビア、そして1999年~2002年と2003年~2006年の2度のパラグアイに夫の海外赴任に家族で同行しました。
この間、1992年長男を、1993年に次男をチリの首都サンティアゴで出産しました。
ここでは、赴任地ボリビアでの子育てについて書きたいと思います。
1996年7月にボリビアの第二の都市サンタクルス市に到着しました。ここは首都の標高3500mのラ・パスと違い低地の亜熱帯で緑が多く、常にバナナ、マンゴ、パパイヤ、パイナップル、レモンなどの果実が自然と実り、子どもがのびのびと暮らせる良い所でした。

住居も落ち着き長男の幼稚園を調べたところ、アメリカンスクールの幼稚園のpre-kinder(年中)の入園を考えて問い合わせをしました。ところが、新学期は8月上旬ですでに募集は終わっていて、空きがあれば連絡して下さるとの事でした。その間近くにある現地の幼稚園に次男とともに入園させ、息子たちは小さいながらも先生のスペイン語の教えのもと、楽しく過ごしていました。翌年の4月ごろ、アメリカンスクールより新学期の募集の連絡があり、長男kinder(年長)、次男pre-kinder(年中)に受験させました。試験日当日、ほかの受験する子供達と部屋に入っていきましたが、10分程して「ぼく、いやー!」と言いながら次男が出てきてしまいました。「あーこれは、だめかな?」と思いながら結果を待っていましたところ、残念ながら二人共不合格でした。せめて、最後まで試験を受けていた長男だけでも入園できないかと、主人と共に校長先生とお話しさせてもらえるようお願いしました。快く応じてもらい、「なぜ不合格だったのか」と質問したところ、まだ長男は「maduraでない」との返答でした。この言葉は、私がふだん果物を買う時にmadura(熟している)かfirme(堅い)か店員に確かめていたのでその意味はわかっていましたので、「長男が熟していない?どういうことなのか」すぐに理解することができませんでした。校長先生がおっしゃるには、長男は年長クラスに入るために必要な英語力が十分ではないという判断だったようです。「日本だったら、その年齢に応じて進学していくのにどうして?」と、子育てしてきて初めてのショックを受けました。

それでも、入学させてもらえるようにお願いしたところ、英語の家庭教師をつけることを条件に1学年を落として年中なら入学できるとのことでした。入園してみると、ボリビア人もアメリカ人もみんな体が大きいので、年の差を感じることがなかったようです。そのうちに友達もたくさんでき、毎週末誕生日パーティーに招待されるようになりました。お母さんも同伴でしたので仲良くなり、気になっていた入園時での年齢の話しをしたところ、学年を下げたお子さんが何人かいることがわかり安心しました。
翌年次男も1年遅れで年中に入園し、長男は年長に進みました。二人とも嫌がることなく授業中先生とは英語、お友達とはスペイン語で会話しているところをみて、能力が劣っていることではなかったことに安心しました。幼稚園はその子の発達段階をみて、その子に合ったクラスに入園させるということを理解しました。

1996年6月長男は年長、次男は年中を修了後、日本に帰国した長男は、小学校1年生に、次男は、幼稚園の年長に編入しました。長男はひらがな、カタカナが十分に身についていなかった
ので、ここでしっかり勉強させていただきました。
その年の9月には、パラグアイの首都アスンシオンに赴任が決まり、日本に落ち着く暇もなく同行しました。
わが家は常に一緒に行動する事を大切にしています。たくさんの色々な経験を一緒にする事が、わたしたち家族共通の話題となり、子供たちの人生の得がたい財産になって欲しいと願っています。

食を通じて感じたこと

我家の海外生活は、長女が2歳の時、香港から始まりました。その後、上海、ニューヨークと通算10年間の海外生活を経て、中学受験を機に帰国いたしました。
中国に返還されたばかりの当時の香港は、街中に人があふれ、そこかしこから、香辛料を含めたいろいろな臭いが混ざり合った、東南アジア特有の街でした。2歳の子どもに果たして何を食べさせれば良いのか、真剣に悩んだ時期でもありました。しかし、だんだんと生活にも慣れ、香港人の友人も出来た頃から、食生活も楽しいものと変わってきました。最初は神経質に日系スーパーの野菜しか買えなかった私も、だんだんと現地の街市(現地の市場)へと繰り出すようになり、見慣れぬ食材と格闘することも楽しみの一つとなりました。現地の友人と買い物に出た時などは、生きている鶏を丸一羽買い、その場でさばいてもらい、そのまだ生暖かい感触の鶏を持って、友人宅へ直行。一緒に蒸し鶏にしたり、見慣れぬ内臓の食べ方などを伝授してもらったりと、楽しいひとときを過ごしました。二人目の出産は香港でしたので、つわりの頃にはアマさん(お手伝いさん)が、いろいろな広東料理をつくってきてくれるので、長女は大喜びしていました。

次の赴任地の上海は、至る所、建設ラッシュで、空気が悪く、交通渋滞の激しい街でした。長女はインターナショナルスクールへ、次女は現地の幼稚園へ進みました。
毒入りギョウザ事件や残留農薬野菜など日本でも話題に事欠かない中国ですので、特に食材には神経を使いました。
次女の幼稚園の給食は、水餃子や、中華丼のようなぶっかけご飯など中国ならではのものでした。また、長女のインターナショナルスクールは40カ国近い国々から生徒が集まっており、インターナショナルデーには、保護者がお国自慢の料理を持ち寄ります。そのため、中国にいながら世界各国の本場の料理が楽しめました。
最後の赴任地ニューヨークでは二人とも現地校へ進みました。ニューヨークといってもリスも鹿もいるような郊外でしたが、今までとは違い、スーパーには新鮮な無農薬野菜やおしゃれな嗜好品がきれいにたくさん並び、最近のヘルシーブームもあって、至る所に日本の食材を目にすることができました。学校でも、日本食はかなり浸透していて、学校行事におにぎりや巻き寿司を持参すると、とても喜ばれました。

海外といっても、香港、上海は日本と同じアジア圏のお米文化。さほど食生活に趣を置かないアメリカの毎日ピザやチキンの学校のランチに、子どもたちも文化の違いを多いに実感していたようです。
海外赴任中、私たちは、常に突然の“帰国”を頭の片隅に日々翻弄されます。我家の在任中もSARS、反日デモ、大停電など、各国で大変なことがたくさんありました。けれども、帰国した今、赴任地で食べていたものを食卓に並べる時、その当時のことが懐かしく甦り、娘たちとも会話は尽きません。日本では味わうことのできなかったいろいろな“おいしい”経験こそ我家にとって何よりの財産だと思います。

大切な思い出

我が家は長女6歳、次女3歳の時、バンコクに赴任しました。それから約9年バンコクで生活しましたが、その間にかけがえのない出会いがあり、また忘れることの出来ない数々の出来事がありました。
長女が中学1年生の時、クラスに1人の障害を持ったお子さんがいました。そのお子さんも一緒に参加した合唱コンクール・遠足・古典の暗記テストなどその時その時をクラス全員で、ひとつひとつ話し合いながら子供たちはクリアして行き、次第に団結力のある、そして優しさ一杯のクラスに成長していきました。
その思い出の1つにバンコク日本人学校の運動会があります。運動会での人気種目の1つがオールスターリレーでした。これはクラス全員でバトンを渡して行きゴールを競うクラス対抗リレーです。

子供たちは休み時間を全て使って練習しますが、長女のクラスは運動の不得意な子も多く不利でした。勝敗にこだわらず、全員がコースを間違えずに走り、無事バトンを渡すことが出来、ゴールできればそれで十分でした。
そんな子供たちの地道な作業を見ていたもの静かな担任の先生が「出来ないことはないんだよ。全員リレーなのだから、皆で相談をして作戦を立ててごらん?もしかしたらこのクラスでも勝てるかもしれないよ。チームワークで勝てることもあるよ」と励ましてくれました。それから子供たちは皆で来る日も来る日も話し合いをして知恵を出し合いました。

まず、○○君は一番が大好きな性格なのでできるだけ他のチームと距離を離して一番でバトンを渡してあげられるように順番を考えました。コースも丹念に教えてあげ、バトンを渡してあげたら「○○君一番だよー!」とクラス全員で応援してあげることにしました。
残りの子供たちは足の速い→遅い→速い→遅いと順番を組みバトンを渡すタイミングをできるだけ足の速い子が長く走るよう練習しました。少しづつタイムが上がっていき、どの子もオールスターリレーに勝ちたいと思うようになっていきました。
長女は毎日帰ってくると練習の成果を話してくれ、小学部の次女も次第に姉のクラスを応援するようになっていました。
そして、当日子供たちは作戦どおりにバトンを渡して行き、○○君は1番前を抜かされることなく満面の笑みで走りぬき、アンカーの子が一番でテープを切ることが出来ました。
担任の先生が一番最初に泣き出し、子供たちは先生を囲んで大喜びでした。雨季明けの爽やかな乾季の空一杯に広がったクラス全員の笑顔でした。
「このクラスに入って○○君の書く字が笑うようになったんです。」といったお母さんの言葉通り子供たちにとって忘れることの出来ない素晴らしいクラスでした。

このメンバー・この先生と再びいつか大人になったら必ず会いたいと思いながら子供たちは日本全国・世界各国へとそれぞれバラバラに別れていきました。「出来ないことはないよ。」といった先生の言葉と涙が忘れられないでいます。
異国の地で子どもたちは戸惑うこともありますがスクールバスで、学校で、或いはマンショ
ンでタイの人々に助けられながら過ごします。
そんなタイの人々の優しさのおかげで、子供たちは立場の違う人の言葉や心の動きに、耳を澄ますことができるように成長してくれたことに感謝しています。

大学受験まで

息子の大学受験までの数年間をさかのぼり、記憶をたどってみました。
大抵の方々がそうであるように、大学受験は本人が主導で進めますから、親ができることはほとんどが経済的な支援、そして、あとはじっと見守ることくらいでしょうか。
息子は中学2年の夏から高校卒業までをロンドンで過ごしました。
最初の1年半はインター校で過ごしましたが、これは親の意向でした。
転入してしばらくはまわりに慣れることで時間が過ぎていきましたが、間もなく意欲をなくしていく様子に気付きました。

言葉や人間関係について苦労することは充分想像していましたが、力を発揮できるはずの理数科目をはじめ勉強面に面白みを感じられなかったようです。
イギリスの教育システムにあるGCSE(中学卒業資格にあたる試験)の準備に入る頃、息子から日本の在外私立高校に転校したいとの申し入れがありました。
イギリスにある在外校2校を見学し、息子が選んだのは、ロンドンから車で2時間の全寮制の学校でした。
とても規律の厳しい、テレビはもちろんスポーツや音楽以外にこれといった娯楽もない学校を選ぶわけですから、よほどの決心だったのではと思います。また、今思うに、勉強面でのこともあったでしょうが、親元から離れてみたいという気持ちもあったかもしれません。
海外での生活は家族で過ごす時間が多くもてるという良い面がありますが、反面、思春期の子どもにとっては閉塞感も大いにあったと想像します。

入学後は夏休み、冬休み・・と家に戻るたび精神的に肉体的に成長していく息子が眩しいようでもありました。息子は親元を離れ、親の目の届かないところで思春期の自分を確立していきましたし、ある部分は先生や友人たちに育てていただいたといっても言い過ぎではないという気がしています。
そんな中での受験でしたので、親の言えることは目的を持って勉強して欲しいということだけでした。
同級生と一緒に生活をし、お互いに刺激しあいながら切磋琢磨するという理想的な環境の中、息子は自分の進む方向を見つけていきました。
入学後まもなく数学と化学の世界に引かれるようになり、高校2年生の夏に大学キャンパスを見学し受験先をしぼり、3年生の夏には一人で帰国し予備校に通いました。現在、化学を専攻していますが、それを思うと無理をしてインター校に行かせないで良かったと思います。

結果、親ができたことはやはり経済的な支援と体調管理、そして息子の決心を尊重することでした。
今も寮で過ごした友人達とは良い付き合いが続いています。この経験と財産は何にも増して大事にして欲しいですし、何かしらの目的を持って人生を送っていって欲しいと願います。

インター校からの高校受験

3年あまりのインドネシア・ジャカルタでの生活を終え、数ヶ月間の日本での生活をはさんでオーストリア・ウィーンへと飛び立ったのは、長男が小学校6年生、長女が小学校1年生の夏でした。
ジャカルタではそれぞれ日本人学校と英語で学ぶ幼稚園に通っていましたが、ウィーンでは二人とも同じインターナショナルスクールのMiddle choolとPrimary Schoolに通学することになりました。
予想されたことですが、当初は、英語の環境に慣れ、のんびりとしたPrimary Schoolに入った長女に比べ、英語があまりできずにMiddleSchool 2年目の7年生に入った長男は、授業についていくのと日本の学校とのシステムの違いに慣れるのに苦労していました。
それでもいろいろな面でウィーンでの生活を楽しめるようになった頃、今度は主人の赴任期間の終わりが見えて来て、長男の日本での高校受験を考える時期になりました。

しかし、補習校も進学塾もない環境で初めて経験する受験であり、現地で集められる情報は微々たるもの。本人も日本の高校生活、そして受験のイメージがなかなかつかめないようでした。
そこで夏休みの一時帰国の際に、フレンズの「学校案内」を手に入れて研究したり、帰国生受け入れ校が集まるフェアに参加して話を聞き、数校は実際に学校まで足を運んで少しでも学校の雰囲気をつかめるようにしました。
けれども、夏休みが終わりGrade 10の授業が始まると、宿題、課題やテストも多く日々の勉強に追われて受験勉強は一向に進まず、結局本格的に受験用の勉強に取り組んだのは、入学試験を受けるため1月に日本に一時帰国した際受講した帰国生用の塾の「直前講習」での約一ヶ月間のみでした。

その間、インター校の方は、受験が終わったら戻って帰国までまた通いたいという本人の希望でお休みさせていただきました。
外国から直接の受験だった為、高校への提出書類で夏休みに手に入らなかった分は一旦高校から国内の親戚宛に送ってもらい、そこから私どもへ転送をお願いしました。書類への記入ミスをし、もう一度同じ手順で書類を送ってもらうはめになり、親戚に迷惑をかけてしまったこともありました。慣れない書類への記入や作成で不明な点は、たびたびメールや国際電話で直接高校の担当の方に問い合わせて解決していきました。
学校選びでは、今まで習得した英語を生かせること、帰国生が多くなじみやすい環境であること、そして実際に足を運んだ中で長男が通いたいと思った学校等を考慮し数校を受験しました。幸い合格をいただけた学校があり、入学後は勉強、部活と忙しいながらも毎日充実した高校生活を送っており、ソフトランディングの目的は果たせたと親としてもほっとしています。
親の都合で何度も見知らぬ土地で新しい環境に挑んでいかねばならず、子供達も大変だとは思いますが、外国人としての海外経験、母国日本での経験を、本人の中でどちらも否定することなく、プラスにして積み重ねていければと願っております。

ある出会い

私は1988年から1994年、2002年から2004年を夫の海外赴任に同行し、シカゴで過ごしました。そして赴任中に2度出産、4度の手術、乳癌手術後のフォローアップを経験いたしました。
アメリカでは、加入する保険により病院と医師(その病院に属する)を自分で選ばなければなりません。
それでは、医師を選ぶ時、何を基準にしたら良いのでしょうか。どうしても日本語の話せる医師でなければと考える方もいらっしゃるかもしれません。確かに言葉の壁は避けることのできない問題です。
けれども何よりも大切なことは自分が望む治療を納得して受けるということではないでしょうか。

自宅から遠い日本人クリニックではなく、近所で開業する医師たちを選んだ我が家の場合、診察に辞書、ノート、ペンを携帯することはあたりまえのことでした。初めての子育てに戸惑う私を優しい笑顔と言葉で励まして下さったのは小児科医でした。2002年、8年ぶりの再会の時、彼は、乳癌手術後3年目を迎えフォローアップが必要な私に癌専門医を紹介して下さいました。医師は常に私に「あなたはどのような治療を望むのか、不安なことはあるか」と尋ね、治療におけるリスクとベネフィットを丁寧に説明して下さいました。生存率だけでなく患者のQOL(クオリティー・オブ・ライフ)を最優先に考え、患者と共にあろうとする医師に出会えましたことは再発の不安を持つ私をどれだけ癒してくれたことでしょう。子供たちをバス停まで連れて行って下さった友人たち、夕食を届けて下さった友人たちは、厳しい治療、流したたくさんの涙とともにかけがえのない思い出です。多くの人々に支えられたシカゴでの日々に心から感謝したいと思います。


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